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お能 観劇メモ
『高砂』『邯鄲』を観た 2010/01/15

2010.1.15. 14:00〜 SePT

凝らされた照明や入れ代わる美しい装置など、かなり演劇的な演出の入った、半能『高砂 八段の舞』、能『邯鄲』でした。
考えたら過去、数回しか能・狂言を観ていないと気付き、今の自分にはどうなのだろうと思って当日券を買う。 
思いつきの行動。 初日公演の最後の1席(しかもなかなかよい)という幸運。 

世田谷パブリックシアターの客席を8列くらい潰し、大きく張り出されたすがすがしい能舞台。 
左右からの橋掛かり。 黒の背景に白木組みが凛と浮かび上がっている。
踏まれる床の響きが深く美しい。 能舞台の床下に埋められ、響きを支えると言われている壷は、どうしたのかな。

しかし、歌舞伎ならある程度日本語がわかるけれど、能はほぼ理解不能でした。
お約束の言い方が拾えたくらいで、あとは完全に音の響きとして聞く。

囃子方をみながらお雛様の五人囃子を思い出し、親しい気持ちに。
小鼓や大鼓は「気」の緩急で鳴らすんだと感じる。 笛は「息」。 凄まじい意気。 
太鼓は「所作」もしくは「重力」でか???

2作品のうち、ひとつは泣きそうに揺さぶられ、片方は眠くて尻が痛いのをじっと我慢してた。 
その差が何かは、わからない。
昨日観たミュージカルを思い出し、客席に想いを届けられるからだの在り方について、少し思い巡らす。 
これは言葉では分析できない。 からだでは何となくわかるのだが。
そしてこれは世阿弥のいう「花」と同じものを指すのか、違うのか。

 

お能の所作は、歩くことと立つことに全てが集約されているのかな、と思う。
主人公が仮面である意味。 架空の、作りこまれた人形としてのキャラクター、が強調される。 
幽玄を身にまとい。 日本人の好む幽玄とは、実際、何なんだろうね。

キャストとミュージシャン(なんていうのかわかんないんだもの)に、
若い方が混じっていると、文化が受け継がれているんだなとホッとする。 場を踏ませる思いやりみたいなもの。 
仕上がりにバラつきがあっても、これも味かな、と許せる。  

『高砂 八段の舞』
正面に大布が垂れ、鏡の松を思わせる図。
それが ♪この浦舟に帆をあげて〜♪にあわせて、帆のように引き上げられ、風をはらんだ。
やがて下方が巻き上がって、シテ方が正面より登場。 息を呑む。
(ん? どっかのミュージカルの演出を思い出させるなwww)
スモークの効果も含めた照明が、静寂と歓喜の舞を際立たせ。
わたしはふと、溢れる光の中、
意識が巻き込まれ、自分が、
屈折した自分の生き方が大いなる何者かに許された、と感じる。
許され、祝われた。 

『邯鄲』
魅力的な話だし、かなり意欲的な演出なのですが、何しろストーリーの運びが、鈍いから。
からだのリズムが協調できない。 ごめんなさい。
観ながら、足利義満はどんな思いで藤若に懸想したのか、とか余所について考えている。 
(これがいつ頃出来た作品なのか、調べたがわからなかった。 少なくとも世阿弥の作ではないので、あくまでも妄想ね)
こちらのシテ方は、ただ立っていたりじりじり歩いてたりのときは幽玄に引き込まれるのに、
語ったり舞ってたりするときは退屈という不思議な存在。

(シテ方は日替わりのようです) 

『鷹の井戸』を観た 2010/06/28

至高の華 新作能楽舞踏劇 『鷹の井戸』
2010.6.26. 13:00〜 国立能楽堂

お能の無形文化財 梅若玄祥
タイム誌でアジアの英雄20人に選ばれたバレーダンサー 譚元元(ヤンヤン・タン)
コンテンポラリーダンスはご存知 森山開次

イエーツの原作をお能の台本にして、能舞台で地謡と囃し方をバックに。
装置もお能の形式で。

2010062614280000_2

(写真は終演後、案内のおねいさんに確認してから撮りました♪)

でも、バレエダンサーはきっちりとバレエを、コンテはきっちりとコンテを、踊る。
融合していたというより、お能の懐に深く抱かれて輝いていた、という感。
森山開次さんの(もともと和とバレエをテイストに持つ)コンテが、バレエとお能を密に溶け合わせていた、とも。

文化としての違和感がどうというより、
最高級な人たちがリスペクトしながら緊張感を持って共同作業すれば、そんなモノは関係なくなるのだな。 
そういう喜び。

     *

まず、感動したのが。
って、わたし、始まって、「序」にあたる部分で泣いてたんですが。
そ。 ドラマが始まる前段階で、です。 
そこまでについてをこれから書くのだけれど。
ヤバい。 お能に対する感性が啓いてしまったのかも。

いや。 単に。
引きこもりの生活をしているので、感性が柔らかくなっているのか。

     *

まず劇場としての、国立能楽堂そのものに感動。
客席を囲む壁にぐるりと軒下?の意匠があり、中庭の雰囲気が作られている。
高い天井。 開演中の客電はぼんやりと薄明るく、天井は星空に見えなくもなく。 
薪能をイメージしている照明なのか。
その中に磨かれた能舞台には、やわらかで輝かしい光が溜まって、夢心地の世界が丸くある。 四角い空間なんだが、丸い感覚。

ホリゾントにあたる部分の松の絵を、何故「鏡の松」と呼ぶのか思い出す。
演劇で言う第四の(見えない)壁にあたる部分、舞台と客席との間(玉砂利)には本来、
松があるべきだがそりゃあ省略されている。 そのあるはずの松が映っているのが「鏡の松」だと。

2010062614270005

橋掛かりは、遠近感の表現かもしれない。
世界に近づいてくるモノ、遠ざかるモノ。
モノが現れるということに、こんなにも神経を払っている演劇。

などなど、奉納としての芸の名残も含めて。

劇場そのものがすでに、神の宿る異空間な美しい美術装置なのだと思う。

     *

唐突に遠くから聞こえてくる少し枯れた笛の音は、風なのか。
トンという太鼓の一音は、鼓動の最初。
パ(ン)と高い大鼓、ポ(ン)という柔らかな小鼓が、重なる鼓動を引き継ぐ。
絡み合いながら、人のフクザツな想いに鼓動が打ち乱れ、高まり。

日本の原風景と心情を音楽によって、引き寄せてくる。

ところで、この大鼓サンが素晴らしい音。 小鼓サンはそれに慎重に温かく添わせている。
その妙。
もしかしたら、人の心の陰陽を「現して」いるのかしらンと思う。

     *

鷹の精(バレエ)の舞いがあり、(山岸涼子サンのコミック、この方をデッサンしているのかなぁとか思う)
井戸の守人である翁が出てきた。

光を宿している、としか思えない。 老人が静かに輝き、ゆっくりと歩いてくる。

そうか、長生きが難しかった昔は、年老いているということはそれだけで、尊敬に値することだったのかもしれないと思う。
今は失われてしまった価値観。 でもここには、その光がある。

6人の地謡が、おぅおぅと声を重ねる。 少しずれた男声。

そして。

世界はすべて、かの能面に捧げられていることを感じる。 無私の精神で。

演者は、からだも技術も意識も、「オモテ(能面)」に添わせている。
額から数センチ離れたあたりに声を響かせ(クラシックの発声に通じるのかな?)、命を宿す。
背後の音楽の持つ想いを、からだで共鳴させる。
囃し方も、「オモテ」の想いに意識を添わせる。
その背後の地謡。 ずれたハーモニー。 それは千々に乱れて沸き起こる翁の煩悩だったのか。

自己の表現、なんて、甘ったるいモノは、そこにはない。
あるべきモノ、創らなければいけないモノに仕える心。

それがお能だったのか。

というあたりで、熱く盛り上がり溢れた涙に、自分でも驚く。

     *

そのあと登場の開次さんは、若武者らしい白く凛々しい出で立ち。

コンテンポラリーダンスとは、シンプルで抽象表現の最たるアートのひとつと思っていたけれど、
このお能のあとだと、
少し無駄な動きが多いのかも、と感じてしまう。
ぴくりとも動かないで、世界と時間を引き受けている感じの「動き」のときが、ステキ。
そこがあるから、お能とも対峙できている。

朗々とした台詞。 あ、日本語がわかる。 笑笑っ。
相変わらず、謡いの日本語は拾えません。
会話している翁の台詞は、わたしには美しい音でしかない。
波動としての想いを感じようと、耳を傾ける。 (外国語の舞台を観るような感じ?)

     *

翁と若武者。
お互いを受け入れられない、対立の残酷。

そこに舞い降りる、あでやかな若い女。 (鷹の精)
男たちの困惑を、ばっさりと切り捨てる。

男たちは、千々に乱れる想いに身を引き裂かれ、
女はそんなものすらアッサリと、ひとつにまとめて受け入れてしまう。
だから男にとって女は(特に若い女は)、理解不可能であり、ジャッジメントなのかな、とか。

   

 

のうのう能『巴』を観た 2010/08/29
2010.8.27. 18:00〜 八ヶ岳能楽堂

山梨の大泉までお能を観にいきました。
お座布団に座りながら父は、「こうやって近所(父は息子の嫁から逃げ出して山梨の別荘に住み着いています)で気軽に能が観られるっていいなぁ」とか呑気をいうけれど、
わたしは東京から観に来てるんですってば。

観世清正さんの表札を掲げた平屋建てのおうちの玄関から廊下を辿ると、
原寸の能舞台にささやかな橋掛かり、舞台をL字に囲む畳が見所という部屋に至る。 キャパは80人くらい。 
一番前に座って手を伸ばせば、演者の裾をつかめる距離。 近い近い。
わたしたちは、脇正面に少し距離をとって座りました。

新築、じゃないよねぇ、と見上げた舞台は、実は築20年。 ぴしりと手入れが行き届いているのはさすがです。

のうのう能というのは、初心者向けの講座を含んだ公演です。(←くわしい説明の替わりにリンクしました)

8ページのパンフを見ながら、能舞台やお能そのものについての愛のこもった説明から、
これから始まる作品の見どころのイラスト付ガイド。
装置や演者数が少ない分、お能には見立てが多いわけですが、
ストーリーとともに前もって教えていただくことで、そのあとの観賞がとてもわかりやすくなり、楽しみどころをゆっくりと味わえました。

次に1節を全員で、声に出してみる。 ナンチャッテ謡(うたい)体験ですね。 
それっぽい声を出すためには、正座して下腹にチカラをいれて、かなり低い声を使うのだと知る。 
意識的にはミュージカルで歌うのと変わんない。 たぶん、音を安定して捉え、よく響かせ、言葉の意味を世界をからだで感じる。 

そして着付け見学!! 最小限の紐で、絢爛豪華な衣裳をぴしりと着付け、髪を作る様子を拝見する。 
目の前で組み立てられると、立体造形としての緊張感と美しさに対するこちらの意識が際立ちます。 ため息。
最後に、丁寧に使い込まれ、やさしい表情の面(オモテ)をつける。 鼻は右に振れていたのかなぁ。 
このオモテに宿る女子の個性、があるかもしれないなと、ふと思う。 つけるオモテによって演技が変わるのではないか、とか。
もしかしたらオモテの方も、時代をめぐる様々な演者たちの過去の演技によって、作られたのではないか、とか。 
そのすべての想いが、オモテのやさしさになっているような。

オモテをつけた演者は、すでに役と個人の狭間という別の存在になりかけている。

休憩を挟んで、いよいよ『巴』。

三人の囃し方の、音のこの絡み方はどうなんだ?とか、小鼓の打つ小さい音の処理はそれでいいのか?とか、
始めのうちはいろいろごちゃごちゃ考えていたけれど、芝居の興がのれば、すべてはふっとぶ。
聴くためには、こちらも腹に力を据えないといけないのだなと、相対する気分になり、
武士の間で教養とされた意味に気付く。 演者だけでなく、見物にも覚悟が必要なのかもな。

幽玄能の構成は知識として知っていたけれど、
少人数のミュージカル、俗な見世物としてのかなりな洗練と感じて、ぞくぞくする。
折りしも、山の遠雷が聞こえ。 いい感じ。
※ 以下《 》内は、わたしの勝手な解釈です。

ワキ(旅の僧侶)が出てくる。 これが観客の無垢な視線。
そこに前シテ(多くの場合、地縛霊)が静かに現れ、哀しいと泣いて消える。
《ここが、スターさんの静なる魅力をみせる趣向》
狂言方(地元の人)が来て、ワキに地縛霊の起因などを説明し、夜通しの鎮魂を頼む。
《シテの衣裳替えの時間稼ぎだが、たぶんここで、哀れに心動かされる僧侶/観客という図式を成立させたいはず》
納得し、静かに幽霊の再訪を待ちわびるワキ。
夜もふけて(たぶん)、うってかわって生き生きと華やかに現れる、後シテ。 《スターさんの華やかな見せ場!》
これがあのおじさまですか?と信じられないほど、微笑みを宿してスッキリと凛々しい美女の立ち居。
しかも『巴』では、巴が義仲を演じるシーンという入れ子もあり、泣くシーンとかが微妙に演じわけされていたりする。
語られるのは、「こんなにがんばったのに無念無念」(意訳です)という泣き言。 
そうか、日本人の共感が得やすいテーマはこれかぁ、とか。

あれ? 巴さん、語るだけ語ったら、いなくなった。 ショーはここで終わりでした。
鎮魂はされなかったね、いいのかな? 
いまどきの人間には、ちょっと尻切れトンボ感?がなくもない。
怨念は続くのか? 終わらぬ無情を思いやるのか?

ワキの演者さんの受け止める芝居がそれは素晴らしく。
お能では、ワキや狂言方は専門職、つまりそれだけを極めなさいという徹底、合理。
ロックバンドでいったらベースギターですかね。 ここが舞台の芯を決めるかも。

距離が近いせいか、うぁぁ、オモテ(能面)=超美女に見つめられてます感、がスゴイ。
巴の想いの乱れと一緒に、こちらも気持ちが揺さぶられ、
すとん、シーン、と終わってしまうカタルシス。

ふぅぅぅぅぅ。 おもしろかったぁ!
でも今後もこの満足を得るためには、観る側にも稽古が必要なのですね。

 

それからもうひとつ。
能面は小さいので、つけると実際の演者の顔ははみ出します。
そうか。
見たいものだけ見て、見たくないモノは「ないもの」にできる日本人の神経は、
ここにも存在したぁ。

 

 

のうのう能in八ヶ岳『敦盛』 2012/08/18


――惚れたッ――

 

とか言うと、今度は誰だよ〜とか思いっきりなタメ息をつかれそーだが。
 d( ̄  ̄)
惚れたのはお能のオモテです。観世さん家の「十六」というオモテのひとつ。

二度と出会えるかもわからない恋だわ。儚いわ。

 

舞台を観ながら惚れ惚れと、オモテ以外はほとんど観ていなかった、と言っても過言ではありませぬ。
少年と青年の狭間の揺らぎ。
憂いのあるシャープな横顔、ぽっちゃりとあどけない正面。
長い後れ毛や、装束の色合いや空気感との、バランス。
ときにはやんちゃに、ときには茫洋と。表情豊かに、くるくると変化する。
ヨダレを垂らさんばかりの、すっかり腐女子状態に。 ^m^

アレだわね。
お能のオモテは、
造形の妙だの、
観る人の心を写してだので、表情が変わるというけれど、
違うわね。

歴史と、過去にコレを纏った演者さんの思いが、人格として宿るのだわ(たぶん)。
生きている。オモテが独自に、語りかけてくる。
時には、演者のからだが置いていかれるくらい、ハッキリとした人格。
『敦盛』を演じるときにしか使われないというから、余計にそうなのでしょうね。

 

ワキの演者さん(則久英志さん)や、大鼓さん(柿原弘和さん)ってお名まえもメモメモ。
父に言わせると、笛が素晴らしいから、小鼓、大鼓も活きてるんだというけれど、
んん。わたしはたぶん、感じられる人格もコミで、興味を持ってる気がする。

が、ここで追っかけはじめると、
お金と時間と自分の内容量とが大変なことになるワと、自戒。(爆笑?

 

のうのう能なので、簡単な講座がついています。
観世喜正さんの謡いの響きに、からだの細胞が震える。心地よい。
構えもなしに、すぃっと声を出されたな。
歌詞を目で追いながら、声が膨らんだ箇所を気にかける。
何故この2行で世界をぐぃっと膨らませたのだろう? 嵐という言葉を支えたのかしら。

(いや、だから。ここで追っかけはじめると……)

 

2012/8/17 17:00- 八ヶ岳の観世さん家でのアトリエ公演?です。

  

 

小金井で薪能 2010/01/15

昔は観た舞台などの感想を、すべてブログに落としていたけれど、
最近、どーなのかなぁ?と思ったモノについては書かなくなった。のは。

他者への敬意と、自己への正直のバランスが難しくなったので。

今回は久々に書いておく。
気持ちの裏には、開次さんに対する「甘え」?みたいなものがあるのかなぁ???
ま。いいや。書いちゃお。
他の関係者さんがここにたどり着かないことを見越して。

 

「金返せ」と思ったのは、S料金を支払ったのに、作家が工夫した趣向もメッセージも伝わってこない席だったからでした。
能舞台の脇正面は、本来S料金の席ですが、
昨日の舞台は、ずっと、舞台袖から覗き観している感で。
それくらい平面的な振り付け。
コンテンポラリーダンスの方は、もともとふつうの舞台用に組まれたものだからと、まだ理解を示せなくもないけれど。
や、少なくとも一本は、正統なお能だったはずなんだが、な。
それが脇正面に対しては薄い横向きの装束しか見せずに、意識も飛ばしてくれてないって、えー?、それでよし? えー???

正面からは、こー見えてるんだろうなぁと。きっとものスゴク、素晴らしいんだろうなぁ。どんなメッセージと出会えたんだろうなぁ、とか思いながら。
くそぉ。自由席なので早めに家は出たけれど、何を思ってか電車を乗り間違えて(もーっ ドジッ!)、
開演間際の到着となった、わたしが悪いの? あんまりだわっ!

 

でも。
何かに憑依されて踊る開次さんを見るのは久しぶりで。
阿修羅像を眺めているときと同じ気持ちになるのは、何故だろうな、とか。

前回、この作品を観たときは、はじめて開次さんのダンスと出逢ったときで。
夢幻の宇宙と、わたしたちというこの世とを繋ぐ、お神楽としてのダンスに打ちのめされたんだよなぁとか思い出しながら、
やっぱり。せっかくの戸外、森に囲まれた星空の下の薪能なのだから、
あー、
S席を捨てて、こっそりA席後方の正面で立ち見でもすべきだったかしらと、後悔しながら。

結論。  ゜..*?〜 \(*^▽^*)/ ? ゜..。.*  カイジサン らぶ〜

  
 

正統なお能を見せ、狂言を挟んで、同じモチーフから発想されたコンテンポラリーを見せるという趣向です。
興味深いのは、
正統なお能よりも、コンテのほうがより「お能」の世界に感じられたこと。

お客もふくめた、夜蝉の鳴く借景や星が散らばる天蓋もふくめた、そこに居合わせるすべてが、
開次さんの汗に輝くからだと、つむがれる動きに奉仕され、集約されていた。

 

それから。小金井市が、小金井公園を利用して、薪能を開催し、34回を数える。
っていうのがステキですね。
薪に点火する儀が、市長さん。会場外には、消防車が待機。
街と興行が、リンクしてるわ。 

 

にしても。やばいなぁ。

後見に出ている彼は、先日、八ヶ岳で拝見したときにもいらした方だよなぁ。
ワキのお名まえ。むちゃくちゃ勉強させていただいた本の著者さんだよ。

ちらしを見ていると、いつも八ヶ岳で後見している方の仕舞いの案内、とか。

…… /(-"-)\  アワワワワッ

こうして「糸」が繋がっていくと、やばい、世界を追いかけて行きたくなる。まずいっ。

 

『羽衣』 2013/08/20

父と毎年夏の恒例になりつつある、のうのう能in八ヶ岳。8/16の演目は『羽衣』でした。
 
今年こそはと開場時間前に到着、正面席というより俗に言うかぶりつきのおざぶとんに座る。
膝の20センチ先が舞台って近さです。
 (*^_^*) えへへへ
会場が観世さん家のお稽古場なので、夢のような位置に座れるのです。
 
 
 
能舞台は、舞台そのものが共鳴板(空間)になっているのは知識として知っていましたが、
演者さんの発声も、そこに響かせることを意識するのだそうです。
(と、講座タイムで教えていただきました)
だから地謡は、腹に響くような低い発声になるのですって。ふむ。
声を空間に放つのではなく、地面を通して見物に響かせる。神に捧ぐ。のかな?
 
インプロやアドリブもありません。すべて型にはまった中で表現しますとも解説される。
神さまに対する礼儀のようなものを感じる。
  
能の持つ特殊や普遍。身体表現としての洗練。そしてナマっぽさ。
んん。
ナマナマしさを排除しているようで、
逆に、凝縮された人間の感情が伝わってくるような気がするのですよね。
 
 
 
シテの着付けやオモテをつけるところを見せていただけるのも、この公演の醍醐味のひとつです。
 
   ふぅぅ きれい ―― わかっていながらも、ため息。
 
そして演者さんが、無私になり、ふんわりと人以外の存在に移行していく見事。

 
 
 
『羽衣』
 
ただもう、きれいきれいな金色の光に祝福された舞台でした。くらくら。
 (*゜o゜*) わーーー
 
正面席に座ったから、囃し方の音も真正面から響いてくる。
全身が響きに包まれる。
 
しかもナント! 小鼓が女性でした。
男性と同じ音程だけれどどこか柔らかなお声で、小鼓の音も小気味よく、
きっぱりとした大鼓(去年と同じ方!)との緩急あるハーモニーがそれは心地よく、
そこにからむ笛(こちらも去年と同じ方!)の音が、もぅ……
 
そして半歩控えている感の太鼓と地謡。
全体に練れている。
 
 くらくらくらくら (*゜▽゜*) 聴き惚れちゃったぃ
 
 
 
オモテが、不思議な小面でね。
はじめは恥らうようにけぶっていて、表情も茫洋としていたのに。
舞が進むにつれてくるくると、くっきりとしたいろんな少女の顔に見えた気がしたのでした。
 


そしてシテ方の可憐。
初々しかったり、ねっとりしてたり。
ごめんなさい。今回はワキの方が視界の外に弾き飛ばされちゃった。
 
演者さんの「無私」が、天人というキャラそのものである「私」となり、
それを通して見物の「私」も新しく生まれ変わる、ような舞台。
 
お袖が(たぶん空高い宙から)振られて、豊かな金色が地上に撒き散らされる、ような。
 
豊かな存在に祝福されたような。
 
 
 
間近から、うっとりと見上げ続けておりましたよ。世界は金色でした。
 
 
 
 
 
実は次の日には体験講座があり、
舞台に上がって、能面をかけられるというスペシャル。
えええええっ!!!
たたたたた体験したいですぅ、無様をさらして恥もかきます。かまいません。
これももう、是非ぃぃぃ。という後ろ髪。
 
東京で花火を見る約束が勝ちましたが。
 
来年は来年は来年はぜひとも参加したいのでした。
(花火、被らないといいなぁ) 
 
 
ちなみに来年の演目は8/22『葵上』です。

   

 

『葵上』 2014/08/26
のうのう能in八ヶ岳
年に1回、わたしがお能を拝見する、初心者向け講座付きのお稽古場公演です。
 
 
今年の演目『葵上』は、いつもより登場人物も多く、少し演劇的であるような。
そして初めて、鬼女/般若のオモテでのお能でした。
目の中を金に塗ってある、若い女性のオモテも、初めてだわね。
 
素敵に古びたオモテをみながら、フト、
ぴかぴかに新しいオモテで演じたらどうなんだろうか?という思いが浮かぶ。
ホラ、
無意識に、
キャラの対比を趣向できないかと考えたんだと思うわ。たぶん。
鬼女や生霊に比べて、生きている巫女は別の生き物に見せたい?みたいな。 
 
 
それより。驚いたのはね。
いよいよ出てきた般若のオモテがね。――やわらかく笑っていた、気がするの。
 
タカダカ オノウ ヨ  アソビナサイ タノシミナサイ みたいな。
 
コスチューム・プレイなのよ。ファンタジーなのよ。ごっこ遊びなのよ。
この世で生きるということは。
 
――みたいな。
 
 
ああそうか。夢幻、ね。
 
 
六条の御息所の情念が、さらさらと。健康で。潔く。軽やかに舞う。夜叉のドラマはまるでない。
 
なので観終わったあとが、妙に浮き浮きと感じられ。
  
とても不思議。
 
 
 
これが、シテの意図する効果なのか――
 
 
鼓のふたりがお若くて、キレのある美しい音ではあるのだけれど、存在が前に出すぎていて。
ときには主張が強すぎ、うるさくて。
 
うーむ。コレはどうなんだろう。と、感じつつ。
 
 
ということが、全体の印象を軽やかにしてしまったということは、あるのかしらん?

    

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