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お能とイェイツと
東京迷子(能面) 2010/03/10

久しぶりに、やりました。 笑笑っ。 街中で迷子になる。

発端を辿ると、本の表紙にあった能面。 小面(若い女のオモテ)。 
ふっくらしたラインと古びた汚れが、スゴクいい。
気になるのが顎の造形。 美しいが人間の骨格からすると不自然。 
なんでこのカタチ?
で、どれでもいいから、ホンモノの古い能面を間近で見たくなった。

どこに行けば見れるんだ?
サイトで検索して。
現代の匠の作などの画像も浮かぶが、何かが違う。 真っ白で、ぴんとした美しさ、だけ?
これを見にいっても、わたしには足りなさそうかな。

人の顔は緊張感と純潔だけでは構成されまい。 (からだもですが)
下にある骨と接している部分の皮膚の張り、
やわらかな目玉が下に隠れている皮膚の張り、筋肉と接している張り、それらをつなぐ微かな弛み。 
その組み合わせが、たぶん、顔。

というわけで、古い能面が見たい。

    

国立能楽堂の展示室なら間違いなくいいものがあろうと、出向く。
晴れやかな太陽の下、溶けかかった雪の上を吹く風は冷たく、ときおりミゾレがぱらつく。
北表参道駅下車。
あれ? 絵巻物しかない。 能面は???
展示期間は終了いたしました。 
だってサイトにはあるって書いてあったのに?嘘つき〜!と、係員のおねえさんに絡む。 (コラコラ)
絡んでても仕方がないので、ほかに見られる場所はご存知ありませんか?と、教えていただく。 
(いかにも学芸員といった、てきぱきと感じのいい方でした) 

千駄ヶ谷→四谷→六本木一丁目と乗り継いで、大倉集古館へ。 
(ホテルオークラと隣接してます。 創設者かなんかの個人蒐集の展示館なのかな? 
 とはいえ、昔の金持ちはケタが違う。 国宝という普賢菩薩像もあった)

きょろきょろしながら歩く。
あれがアークヒルズか? 他にも大使館とか、宗教団体の館とか。 すげえのな。
にょきっている巨大ビル。 道路に面するあちこちにガードマンが多数。
この街で日本人は、3層くらいに分類されているという実感。 マジ。
能力とは関係ない「階層」というものは、あるね。 と久しぶりに思い出す。

展示はすごくよかった。
それを語るのは、別の項で。 (長くなりそうだもん)

で、駅への10分弱の帰り道で、はい、迷いましたぁ。
何故だ? 自分でもわからないよ。
ふと、考え事から我に返ったら、あれ? 違う坂道に出ちゃってるけど???

いけないのは、
いよいよになったら後戻りすればいいと、そのまま見当をつけて歩き続けるからだな。
地下鉄の駅の入り口なんて、1筋、道が違えば見つけられないってのに。
振り返ったら、たぶんあれがアークヒルズ?が、とても遠くに。
ええ? あそこまで戻るのヤだな。

ヤ、も何もないのだが、ほんとは。

代わりに近づいているのが、東京タワー。
他に目印もないので、なんとなくそっちを目指す。 
が、待て。 
東京タワーに行ってどうするよ。
1時半も回り、おなかもかなり空いてきたが、その辺の店に入って食べたい気分ではない。 
(内心、焦り始めている)

いかにもシロガネーゼな若いママたちとすれ違う。
階層差意識にひがんでいるので、駅、どっちですか?が訊けない。
へらへらとガードマンに訊ねるのも、なんか癪。
歩き続ける。

ふと、バス停の運行先と、逆方向は?を見たら、お、渋谷行きぢゃん。
渋谷までバスで帰って、そこでお昼を食べよう♪と、
いそいそと元気を取り戻して道路を横断し、
運行表を見たら、
そうですか。 30分後ですか、次の便は。

とりあえず、渋谷の方角はわかったので。
途中に六本木の駅があるはずだと、歩き出す。
おおっ、知ってる交差点に出た。 直進すれば、六本木駅だぁ。

歩きながら考えるのは、
六本木から三軒茶屋に帰る路線のヤッカイさで。
だったら、もうひと駅、乃木坂まで歩いたほうがマシだよなあ?

ん。 乃木坂までいくんなら、
途中で、国立新美術館にも寄っちゃうかな〜。
今、何の展示をしてたっけ?
んー。 ちょっと足が痛くなってきたから、美術館を一周するのはキツイか?
などと考えがよぎるが。
基本、思考は止まっている。
どっかでランチ〜?とか思いながら、
どうしよう〜?とか思いながら、
足は止まらず。 ただ歩く。

美術館入り口までは行ったが、特別展示がルノアールじゃあ、パスしますと、
そのまま乃木坂駅へ向かう。
ショートカットしようとして、袋小路にはまる。 やれやれ。

無事、乃木坂駅。 
渋谷で途中下車して、買い物。 めちゃ無駄な動線で。
何してる、自分。
んっとに、頭、止まってたよ〜。

結局、おうちにつくまで食事せず。 
途中から、おうちで何を食べようか、だけを考えてたな。
 

  

能面を見る 2010/03/11

『能面・能装束展』 大倉集古館  2010.3.10.

平日ゆえ、館内がいい感じに空いていたので、他の方の邪魔にならないように。
ひとつのオモテを見る角度を変えたり見る距離を変えたり、
あっちとこっちをうろうろと比べたりと
能面というものを気が済むまで、好き勝手に眺められました。

あとは一回、手にとって見たいなあ。 ガラスケースごしでなくて。
重さと、できれば、あの裏穴から世界を覗いてみたい。

  

よく言われるのが、オモテは見る角度によって表情が変わるということですね。
えっと、お札を折って人物を笑い顔にしたり泣き顔にしたりして遊ぶでしょう?
あれと同じ理屈だとわかりました。
正面から撮った写真だけではわかんなかったぁ。

まずわたしは、小面の顎の造形に不自然を感じたのですが、
これは頬にかけてをぎゅっと奥に低くしてあるためでした。
つまり、口の端も一緒に低くなる。
これで何が変わるって、まず、横顔における口が大きく見える。
ええ。
オモテから少し離れて真横から眺めながら、
そのオモテを覗き込んでいるおじいさんの横顔の口の見え方と比較しましたから、確かですよ。
もうひとつ、山折りに横一文字に口が引かれている造形とイメージしておいてください。

そして目。 細いながらも、ギャル顔負けのアイラインがくっきりと長く引かれています。
顔の側面にかけてね。
瞳孔はちょうど、アール(カーブ)に位置するように。
このことで横顔における目の分量が際立つことと、
もうひとつ、山折りに横一文字に目が描かれている造形になるわけですよ。

ね。 お札に描かれた肖像画の両目を山折りにして、上から見たときと下から見たときと同じことが起きてるわけで。
神秘でもなんでもない。 ただ、実にすごい作為です。

作為に関しては、その他、もう、気付いただけでもいろいろあって。

あどけない童女の顔をした、でかいオモテがあって。
でかいのは、たぶん演者の顔を覆いたいからだろうな。
で、どうしてるかというと、まず目の位置を低めにしておでこを強調し、(幼児の配置)
尚且つ、目鼻口を顔の中央にぎゅっと寄せることで処理している。
比較するものが何もない舞台の上で、だぼだぼに衣裳を身につけたら、
完全に幼女の造形になるんだろうな。

まいっちゃうよねえ。

 

能面って写実ではなく、デフォルメされた人形面であるわけですが。
ってか、お能そのものが、
現代における、コスプレとかフィギュアとかに通じる感覚じゃないかと思い始めてます。
関係者さんに怒られそうな考え方かな。
仮面劇というより、人形劇?
肉体の持って行き方は、コンテンポラリーダンスに近いみたいだし。

面をつけて踊る、ということに関しては、うまく言葉がまとまらないです。
高い精神性を伴う、でもコスプレであることは確か。
不細工だが柔和な、破顔の極致であろう翁のオモテに似合う、肉体の作りかた、気持ちの作りかた。 
うまくできたらエクスタシーだろうなあ。 うまく、できたら、ね。

 

女という生き物の分析。 持て余したり、付け入ったりの男の視線。 
各種の美女たちのオモテを見ていて、そのへんも楽しかった。
意匠していた面打ち師たちも、楽しんでたんだろうな。

スペシャルは。
本面(原本)についた傷をも再現したという若い女のオモテ。
その傷というのが。
白い肌に残る微かなカサブタにも見えるし。
細い縄目の跡、にも見える。 ふはははははは。
誰だ、能は幽玄だなんて言ったのは!!!

   

 

能面を考える 2010/03/19
先日、能楽師の方の文章を読み、

演者はどうやら、オモテ(面)に気持ちや肉体を添わせて演じるのか?というわたしの感覚は、
それほど的をはずしていなかったようだと知る。

自分の感性というより、
たった1回観たわたしに、それを気付かせる舞を演じていた方々の凄さを思う。

 

発想の飛躍というのは関連文献というより、読み散らかしている本の中にみつけやすい。
今回、引っかかってきた単語は「憑代(よりしろ)」。 神霊が憑依すると考えられているモノのことですね。
これは別の興味の対象の参考になるかなと読んだ本の、そっちでは的外れだったのですが、
全然関係ないところで、こんな単語を拾えるのだから、オモシロイ。

 

で。

能面が憑代である可能性は、ないのかな?

能にゲネプロはないと、ウィキペディアにはあった。 合わせをするとしても、絶対にオモテは使わないとか。

その舞台が奉納であるか興行であるかによっても、意味は変わってくるけど。

 

で。

能楽師という神もしくはシャーマンを、神事もしくは芸能として観賞する観客は。
その舞台、目の前にいる、非現実な人に、何を期待するのだろう。 
そしてやがて、必ず、その世界は終わる。 失われる。 自分と現実だけが残される。

 

なんだか、ものすごい原点と向き合わされる。

  

人形アニメーション 2010/03/21

能面、人形劇の流れから、次に観たのは人形アニメーション。
川本喜八郎さんの短編集と『死者の書』。

と、ここまで書いて気付いたけれど、このブログを読んでくれている人で
川本喜八郎アニメを1本でも観ている人は皆無なんじゃないかな。
とかなんとか言いながら、わたしも『死者の書』は初めて観たのだけれど。

すごかったぁ。
いろんな意味でノックアウトされ、創作者の端くれとして猛烈に謙虚になれます。

 

アニメーションになると、オブジェにアニマ(生命)を与える方法論となるので、
演劇とは方向が変わってしまうのだけれど。
観ていて思ったのは、人間の魂の純化。 高い純度。
業を持たない人形が執心を演じ、解脱する美しさ。 
血肉を身にまとう人間には無理な存在感。
そして、などなどを創っている人間らの執心がそれを支えている愛らしさ。

能でオモテというオブジェを使うのも、魂の純化を表現したいからなのかなぁ。

 

今までの流れからいくと、次は文楽に挑戦か?
と、立ち止まる。
そこまではいくことないか。

この数ヶ月、幾度となくぶつかる名まえが、折口信夫です。 『死者の書』の原作者でもありますね。 そっちかな。

  

 

能舞台 2010/07/30

さて避暑のついでに、どうせなら一箇所くらいはご近所の観光をしようとサイトを探したら、
「みそぎ神社」という神社に、池を伴った能舞台があるらしいと知る。
しかも8/3には薪能があるらしい。

そして山梨のおうちにいったら父がちらしを見せてくれた。
8/27には、別の場所で別のお能の公演があるらしい。

どうしよう。
どちらかのその日、東京からお能を観に来るかなぁ。

 

というわけで、まず「みそぎ神社」の能舞台(と神社も)を見にいく。

1007261

水の照り返しが軒下に揺らめき、美しい。
なるほど。 ここで薪能を打ったら、なかなかの幽玄になるかも。
(この条件でシェークスピアが観たい気がする)

サイトと父の話からすると、古神道を掲げる宗教団体の経営らしい。
こんな舞台を建てられるのなら、宗教団体も素晴らしい(かも)。

ただし。
本殿は、聖域の赴きはなくはないけれど、神さまの存在感は薄い。 (一応アマテラスだと思う) 
映画のセットの雰囲気。 
古来から在る神社の持つシンとした怖さは、どうやって育つのだろうとかちょっと思う。

宮司さんというより信者さん?みたいな方に、公演について訊ねる。
芝生に椅子を据えて、客席1000人以上の規模になるらしい。 すごいな。
そしてどうやら、一番よさげなエリアは組織のエラい方々の席らしい?(←勝手な推察です)
んんんん。 一般人が混じって、居場所があるかなぁ。 ちと不安。

 

次の日はもう一方の「能舞台」を探して、うろうろする。
なんでうろうろって、家を出ようとしたら肝心のちらしがなくなってたからで、
父がネットの地図をプリントアウトせずに、手書きでメモしただけだったからだ。 
(結局、ホラね!と、わたしに怒られることになる)
途中、草刈をしているおじさんに尋ねたら、「ナビは?」と訊かれる。
笑笑っ。 父は新車にもナビを積んでいないのだな、これが。

もしかしたらと、「八ヶ岳神社」という場所を教えていただく。
父は住所が違うと首をひねるが、能舞台があるのなら見たいとネダる。

1007282   

1007283 

雨ざらしでばりばりの床板。 正面に立つと、圧倒的に狛犬が邪魔。
どうみても、公演できる状態に見えない。
もったいないなぁ。

地元の素人な人たちの奉納舞いみたいのなら、出来そうだよ。
村祭りみたいな雰囲気で、やらないのかなぁ。 やってるのかなぁ。
いや、小劇場の演劇でもいいんだけれど。 シェークスピアでも。
(集客や交通を考えると、なかなか困難か)

わたしがあれこれと能舞台を覗き込んでいる間、父は隣の郵便局に話を訊きにいく。
おーい、やっぱりここじゃ、そんな公演の予定はないってよ。

 

しかし、狭い地域に、こうも能舞台が密にあるって、どういう文化レベルなんだ、山梨県。

 

さて、次にどうしたか。 図書館に行きました。
うん。 ちらしをゲット。 
ついでに司書さんに地図を見せながら場所を訊ねる。

 

そうしてたどり着いた場所に、能舞台らしき建物なんて、ない。
広々とした畑と人影のない昼下がりの住宅。
ちらしの地図を睨むわたしを置いて、
父はさっさと車を降りて、どこかに消える。 ご近所さんに訊きに行った模様。

観世さんのご自宅じゃないかってさ。
はぁ?
ご自宅なら稽古場があるだろうし、そこ?

そのご自宅を辿ると、確かに住所が合っていて、表札は主催者のお名前でした。
つまり、
「八ヶ岳能楽堂」って、ここか? 
どうみても、品ある平屋建ての普通のおうちだが。

窓が開いてるけど、どうする? 室内を見せていただくか?
いやいや、ご自宅じゃあ、通りすがりがお邪魔していいものでもないでしょう。

帰り道、なんかその手作り感にわくわくしてくる。
お能のアトリエ公演かぁ。

 

というわけで、東京に帰ってきて、サイトからチケット手配をしたのは
観世さんのご自宅の公演の方。
のうのう能『巴』。 1泊の予定でいくつもり。

  

現代語訳『風姿花伝』を読む 2010/08/29

世阿弥著 水野聡訳 PHP

わたしの場合、古文の何が苦手って、文章が肯定文か否定文かの見分けがつかない。 
(>_<) はい、致命的です。
これはとても読みやすい現代語でした。 この本に出会って、ようやく花伝書を読むことができた。 
そのうち、他の訳や原本も読んでみるべき?

わかりやすい日本語になったから、中身もわかりやすいかというと、また別。
いや、わかりやすいです。 興行を前提とした現代演劇論として、一読とは言わず、
手元において繰り返し読むべき内容だと思います。 

とても、考えながら読むことになります。
たとえば、世阿弥さんがひとくくりに「花」と言っているモノが何を指すのか、都度、迷う。
時代的なボキャブラリーの差だと思うのですが、かなりいろんなモノを「花」という言葉に纏めて使っているように思います。
「珍しさ」という単語だって、たぶん「驚き・驚かす」という意味で使っている。

現代語訳された日本語を、読みながら、自分なりの演劇語訳する。
これが読み甲斐。 
あっちとこっちで矛盾すること言ってるけど、演劇人なら共感できる。

 

もうひとつ、
わたしはこの本の前に
『華の碑文-世阿弥元清-」 杉本苑子著 中公文庫 を読みました。
当時の興行形態がわかってから読んだほうが、わかりやすいかも。

   

イェィツ覚書『対訳詩集』 2011/07/27

夕べは岩波の『対訳イェイツ詩集』高松雄一編を、超斜め読み。
感想。
ノーベル賞をもらった聖者さまかと思っていたが、とんでもないオヤジだったみたいだ。 W.B.イェイツ。

わたし自身、50歳に手が届いたら少しは人間として枯れるかと期待満々だったのだが、撃沈。
ではいくつになったら?と内心不安に思っていたが、
どうやらイェイツは73歳の死の直前まで、世の中への怒りや自身の混迷に猛っていたみたい?で。 
はぁ、自分らもなのかなー?と、溜め息、溜め息。

この詩集のおもしろさは、ほぼ、書かれた年代に沿って並べられていること。
イェイツの「心の旅路」がキレイになぞれる。
おあっ? 詩の風合いが変わった?と思うと、ちゃんと年代が飛んでるし、
あれ? 考え方が戻ったの?と思うと、年代順が入れ代わっている。
(編集のルールには、それなりの理由があるようです)

年表もどきを、自分でメモしながら読んだのだけれど、
青春の傲慢や、アイルランドの時流や、失恋や、結婚や、自身の年齢が、
ご自身の内面にリンクしていて、すごくわかりやすいオヤジだと読める。
そしてたぶん、永遠の厨二病。 (←これはもう、他人事ではありませぬなwww)

長い長い失恋の直後に、若い女性と結婚し、
そして生まれた娘に贈った(のであろう)詩なんか、
こんな女にはなってくれるな!という願いが込められてるし! 
(爆! って、こーいう読み方すると、学者さんに怒られるのかな)

  

発端は、

去年の開次さんが出演された『鷹の井戸』について書いたブログを読んだと、
先日、見知らぬ方からメールをいただき、
イェイツに関するその方の考察レポートも読ませていただいた。

そのレポートの中に引用されていた詩の中に
life easy とあって、
くぃっと惹かれる。 素直に、気楽に、簡単に、生きる――?
あれ、なんか、すごく大切なことを言っていない?

そのときは、
イェィツがケルト伝承やオカルティズムを通して、アイルランドの国民の独自性を呼びかけたように、
日本でも遠野物語とか、古事記を通して――みたいなことを考えて。
ん。 日本も過渡期だからなぁ、と。

 

で、思い出して、松岡正剛の千夜千冊を読み、

ちょっと、誤読しました。
(この場合、わたしが誤読したというより、松岡さんの書き方からがあやふやじゃない?とも思えるけれどな)

つまり
何度も鷹の井戸のそばにまで辿りつきながら、鷹が舞い上がって自分を嘲っているのを見ている。
というくだりを、鷹=芸術の極みと解釈して『鷹の井戸』を眺めなおし、
おや、これは?と、興味を持ったのです。
見果てぬ欲望の刹那さの話だったのか???

でもね。 上記の岩波『対訳詩集』を読んでみると、
泉=芸術の啓示、鷹=誘惑(邪魔)する女性、に思えてくる。
『鷹の井戸』のあとに書かれた『再臨』という詩の中では、鷹=飛翔する魂のイメージ?が出てきて、
まあ、なんらかの象徴ではあるのだろう。

何がテーマだったんだ、『鷹の井戸』? 
改めて読み直して、今のわたしたちに何を語り掛けたい?
永遠の厨二病であることの必要性か?

 

問題は、
『鷹の井戸』が、ロンドン(アイルランドと敵対する)で、上流階級(支配層)に向けて、初演されていること。 
1916年、何月のことかは未チェック。 6月を過ぎていたらイェイツ51歳。 うん、今のわたしと同い年だ。
イェイツ自身は、アイルランドとイングランドの双方の恩恵を受けているようで、
アイルランドの独立運動に関しては加担しながらも、複雑な思いがあったのだろうなと、
これは一言でまとめてはいけないこと、だ。
んでね、
イェイツのファム・ファタール(運命の女)が別の男と結婚、出産、別居、離婚して、
そのダンナが刑死したのも1916年(何月のことかは未チェック)。
1917年に、イェイツはその女性に最後の求愛をして、断られ、52歳で25歳の女性と結婚してるらしい。
ちなみに、第一次世界大戦は1914-1918。
アイルランドの独立戦争は1919-1921。 1916には復活祭蜂起すぐに鎮圧(友人らの犠牲)ということも起きている。

さて、そんなこんなの中で、
というよりその1年ほど前に、構想され、書かれた『鷹の井戸』ですぜ。
オッサンは、何を歌いたかったんだ?

 

次に読むのは、
69歳で回春手術をしたという『イェイツ 自己生成する詩人』萩原眞一 著
『ライオンとハムレット W.B.イェイツ演劇作品の研究』岩田美喜 著

 

 

これらが、何らかのストーリーとして形を為すかはわからないけれど。
とりあえず、
「お能とイェイツと」とカテゴリーを作って、去年啓いたお能・その他についても、こっちにカテゴってみます。 

 

あ、千夜千冊を読んだついでに、折口信夫『死者の書』についても読み、なるほど、
『死者の書』も再読。 って、わたしの手元にあるのは選集で、(抄)とついて一、二しかないのだけれど。 
今回は、魂の浮遊感みたいなものを感じて、読めた。
このへんも、たぶん、繋がる。

『死者の書』を全部、読みたい方はこちらです。 
味わいは楽しめるが、わたしにこの長文の理解は、無理。

   

覚書『ダブリンの4人』とか 2011/08/03

読み始めた本がどうにも消化不良なので、
『ダブリンの4人―ワイルド、イェイツ、ジョイス、ベケット』 R.エルマン著
を読み始めたら、これがおもしろかったのでした。

まず、当時の空気感みたいなものが伝わってくる。
時代の、文壇?の、作家同士の友情や批判やリップサービスの、

あの(耽美主義な)ワイルドが学生時代、カトリック教徒になるかフリーメイソンを選ぶか迷っていたなんて、
かなりのびっくりだが、
考えてみると当時のイングランドはプロテスタント(イギリス国教会)が体制側だったのだろうから、
青年らしい反体制というファッションとしてのカトリックかと、納得。

となると、プロテスタントの家に生まれたイェイツが、カトリックを主とするアイルランド独立に加担したとしたら、
えーと、
自分の内面が分裂しないように無視することでバランスを取ったのだろうか???とか、気になる。

もうひとつ、すごく気になったのは、
ワイルドやジョイスの項で感じる、クリエーターとしての共感って言うのかな。
その人らしい愛らしい欠点という本質、迷いや愚かさ、その人独特な価値観が、イェイツには見えてこない。
極度のええかっこしい、だったのか?
創作の啓示が、湧き上がったり降ってくるというより、
(父親とかに)表現を褒められるための、正当化するための、他人の教えや書?に沿った自己生成だったのか??
あとね、イェイツの運命の女モード・ゴンが、かれの女優までしていながらも、30年にわたる求愛は突っぱねている事実。 
人間としての「嘘」でも感じていたのかな?とか、ナントカ。

ベケットに関しては、
突然変異として現れたかのような作風だが、アイルランドの先達たちとはこんな関連性があるという比較論なのだけれど、
エルマンさんが自信なさげに示唆している『鷹の井戸』とずっと後に書かれた『ゴドーを待ちながら』の類似の指摘が、興味深いのです。
シンプルなセットに1本の木、そして何もせずに待つ男たち。

ロンドンの商業演劇に対するアイルランド演劇を興そうとしてのスタイルが、既存の否定だとしたら、派手な装置や朗誦のない、
ストーリーよりも感情や関係性の昇華をめざす「能スタイル」をヒントに、
不条理劇に辿るラインが生まれたとも考えられるかもしれない?
(早く早く、次の本を読まねば!)

 

      

わたしが目指すのは、評論ではなく創作です。

これらの作業が何を意味するかというと、
芝居の構成として、『鷹の井戸』を入れ子にしたイェイツのある日のある時間を設定するための資料。

イェイツの人生はざっくりと3つに分けられそうで、その2/3の分岐点に『鷹の井戸』は書かれた気がするのですね。
失恋、結婚、その他を境にして、本意か不本意かはともかく、何かを切り捨てた気がする。

 

もっとも『鷹の井戸』を、もっと夢幻能に即した構成にしようと設定を考えていたら、
そっちだけでおなかいっぱいになりそうで、
でも、チョットいい感じのファンタジーかも???
――どうしましょうね。

夕べは、どんな口調がいいんだ?と。
能の様式でも、台詞はちゃんと客席に届くためには。
本棚の前で、
イェイツの詩(和・英)とか、『死者の書』とか、シェークスピアとか、を音読してみたり、
違う違う違う、
『死者の書』の した した した を、からだで感じようとしてみたりして、
ダメだダメだダメだ、
結局、寺山修司/岸田理生の『身毒丸』にたどり着き。

世界に引き込まれて、そのまま黙読してしまった。 やっぱすげーな『身毒丸』は。

それから、今日は『ワキから見る能世界』も再読。
夢幻能について。

 

と、きて、
『ライオンとハムレット』を読み始めました。
視野が広く、よく勉強もされている研究者さんのようで、今読んでいる項、イェイツの家系についてが、とてもおもしろいです。
少年イェイツの価値観はいろんな形で分裂を強いられていて(父方、母方、父の)、
共存させるバランスをとるために複雑な内面が形成されたのかな?と読める。(今のところ、ね)

ただこの研究者さんは、イェイツの著を引用しながら、イェイツを著者と言ったり作者と言ったり、
特に使い分けている風もないまま、ごちゃごちゃなので、混乱を強いられる。
どうしたら、こういう文章になるんだ?と、そっちも少し興味深い。

 

本を閉じて、そろそろ寝ようとベッドに倒れましたが、
自分の内の整理がアレコレ始まってしまったので、起きだして文章に落としてみました。

続く。 (これで寝られるかな?)

  

   

お能の講座 2014/10/31
山梨で市民講座に参加したのは、体験として、あこがれのあこがれの、能面に触らせていただけるということで。


何年来のあこがれかしらね。ごっくん。
受け取ってから一礼をして、

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若女(23歳)のオモテです。あえて目の穴が小さいのをつけさせていただきました。

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↑↑ 顔をオモテに近付けるのではなく、オモテを顔に引き寄せるのが決まり。
この時点で何を感じていたかは、後述。

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↑↑ 上半身を斜めに倒したあと、おへそあたりから立ち上げた姿勢。
オモテを見せる/魅せるためにすべてがあるわね。

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↑↑  泣く仕草、のつもりだったけど、げっ、手の角度が違うわ。位置もこれではオモテの表情を隠してしまうわね。
他人からの見え方と、自分のつもりとの差の大きさにびっくりだわ。

 

もうおひとかたは般若の面で。見得がきまってます。

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↓↓ 600万のお衣裳。自然光のもとのほうが発色がよく見えるそうです。

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↓↓ 下着をつけて、

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↓↓ 右前の裾は、右足にまきこむように。左前は脇のラインがからだのセンターにくるくらいまで、
裾をはね上げて着付けます。当然、すり足でしか歩けません。

襟元の開け方で年齢を表す。

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オモテのはなしに戻って。
お能でオモテをつけるということは、「役になる」のではなく、「役になるふりをする」のだそうです。憑依するのではなく、
あくまでもその役を演じているにすぎない。嘘であることを自覚する。なので、舞台に立つぎりぎりまでオモテはつけないし、
あげ幕の中に戻ったらすぐに外すのも、決まり。
能面がひとの顔よりも小さくつくられているのも、そのため。

演者がオモテ(能面)に支配されないよう、細心の決まりごとがたくさんあるみたい。

 

でもね。実感を言えば、

オモテの裏側は暗く塗りこめられています。目の穴、鼻の穴、口が夜空の星のようにうっすらと明るい。
儀式めいた手順で顔に引き寄せながら、一瞬だけ、自分が宇宙の深淵に飛びこむような気分を味わう。
異世界へ、他人へ、切り替わるスイッチ。

そしてオモテの中という暗闇から見る外界は、奇妙な明るさを持ち。
予想していたよりも、外はきちんとひとつに見えるのでした。(視界が狭いと聞かされ過ぎ?)他の受講生の方々にわくわくと見上げられて、
あ、これは、わたしをではなく、オモテをつけたわたしを見ているのだなと思う。奇妙なくすぐったさ。
オモテを動かす方向、角度、スピードに制限があるので、実際に動いたら、足元が見えないとか、いろいろな不自由があるのでしょうね。
もっとも、能舞台の空間をからだが把握すればいいだけって気もするけど。
冷静な自分を保てているかどうかもあるかな。お囃子や地謡の声に包まれたら、あっけなく異世界にジャンプしそうだな。

という思い違いに引きずり込まれないための、決めごとってコトよね〜

 

あ〜 長年の夢がひとつ、かなったよ〜
ありがとうございました。

 

能楽入門講座 花のみちしるべ
主宰 観世流能楽師 佐久間二郎

  

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